メンバー略歴
一覧

現行

シカゴのメンバー紹介です。

英語の発音は、日本語として表記すること自体が難しいので、違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、その点はご理解を賜りたいところです。

愛称や旧来の呼称はカッコ書きにて併記してあります。

加入年度、離脱年度については、一個人が契約上の正式な日付を確認できるわけもなく、不明な箇所が多く存在します。そのため、一応の目安にすぎないと思ってください。

正式メンバーとしてクレジットされた順を基準としています。そのため、例えば、クリス・ピニックよりもビル・チャンプリンの方が先に表記されていたりする点にご留意ください。

なお、資料としては、シカゴのオフィシャル・ウェブサイトのほか、洋書『FEELIN' STRONGER EVERY DAY』、『レコード・コレクターズ』95年12月号、各CD付属のライナー・ノート各種掲示板の書き込み(国内海外を問わず)などを参照しています。また、中には、直接本人や関係者からいただいたコメントを加えて記述している箇所もあります。

メンバー・ツリー

一覧
<創設メンバー>
01 TERRY KATH

テリー・キャス

02 WALTER PARAZAIDER

ウォルター・パラゼイダー

03 DANIEL SERAPHINE

ダニエル・セラフィン

04 LEE LOUGHNANE

リー・ロックネイン

05 JAMES PANKOW

ジェイムズ・パンコウ

06

ROBERT LAMM

ロバート・ラム

07 PETER CETERA

ピーター・セテラ

<途中加入メンバー>
08 LAUDIR DE OLIVEIRA

ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ

09

DONNIE DACUS

ドニー・デイカス

10

BILL CHAMPLIN

ビル・チャンプリン

11

CHRIS PINNICK

クリス・ピニック

12 JASON SCHEFF ジェイソン・シェフ
13 DAWAYNE BAILEY ドウェイン・ベイリー
14 TRIS IMBODEN トリス・インボーデン
15

BRUCE GAITSCH

ブルース・ガイチ
16

KEITH HOWLAND

キース・ハウランド
17 LOU PARDINI ルー・パーディーニ

※なお、BRUCE GAITSCHに関しては、正式メンバーと捉えるべきか微妙と思われます。

現行メンバー

リー・ロックネイン(トランペット)
ジミー・パンコウ(トロンボーン)

ロバート・ラム(ピアノ)
の創設メンバー3名と、

レイ・ハーマン(サックス)
ウォルフレド・レイエス・JR(ドラムス)
ニール・ドネル(ヴォーカル)
ラモン・イズラス(パーカッション)
トニー・オブロータ(ギター)
ローレン・ゴールド(キーボード)
エリック・ベインズ(ベース)
の途中加入メンバー7名の合計10名構成。

なお、ウォルター・パラゼイダー(サックス)は、2017年をもって、バンド・メンバーとしての活動から引退しています。

 [現行メンバー]

[サブ]

なお、近年では、メイン・ツアーであるサマー・ツアー以外のとき、あるいは、メンバーに諸事情があるときに、以下の外部サポート・メンバーが、シカゴのツアーに代役として参加することがあります。

代役(=ツアー時のサブ)
ウォルター・パラゼイダー レイ・ハーマン、ラリー・クリマス
リー・ロックネイン リー・ソーンバーグスティーヴ・ジャンコウスキー
ジミー・パンコウ ニック・レーン、トニー・ヴェラスコ
01

TERRY KATH
テリー・キャス 
[カス]

ギター

1946年1月31日、シカゴ生まれ。

個人ディスコグラフィ

オフィシャル・ウェブサイト娘のミッシェル・シンクレアが管理
myspace娘のミッシェル・シンクレアが管理

クレジット

驚異的なギター・テクニックで知られるテリーは、ほぼ独学で奏法を習得。ただ、「一番影響を受けたのは、ベンチャーズ」というのが本人の言。固定観念にしばられない独創的な演奏は聴く者を圧倒します。

おそらくは63年頃になって、テリーは、ウォルター・パラゼイダーとバンド活動を通じて知り合いになります。のちに、これにダニエル・セラフィンも加わり、この3人がいくつかのバンドにおいて行動を共にするようになったと言われています。つまり、このテリー、ウォルター、ダニエルの邂逅(かいこう)がシカゴ誕生の大きな要因だったわけです。

テリーは、作曲、歌唱ともに担当し、非常に印象的な楽曲を数多く残しています。とくに、ファースト・アルバムの第1曲目は、このテリー作の"INTRODUCTION"ですので、シカゴはテリーで始まったと言っても過言ではないでしょう。

バンド内では、過激な発言や斬新な音楽的志向を持ち合わせた存在でした。しかし、本人の作風自体は、冷静に見てみると、実に愛にあふれたロマンティスト振りをうかがわせてくれます。例えば、『シカゴV』から『シカゴX(カリブの旋風)』までには、必ずテリー作の甘いバラードが1曲程度収録され、一味違う一面を見せてくれもしていました。むしろ、ロバート・ラムの曲の方がラディカルな部分を多く含んでいたように思われます。

テリーの愛用したギターのうち、テレキャスターという種類がありますが、このギターによって、早弾きながらもあのメリハリのある“パキパキ”とした奏法が実現されているようです。

また、テリーのヴォーカルは、絶叫に近いものもあれば、心の底からあふれ出す温かさを感じさせるものまで、本当に多彩なスタイルを内包しています。

しかし、残念ながら、テリーは78年1月23日に拳銃の暴発事故により帰らぬ人となってしまいました。享年31歳。

精神的支柱だった彼を失ったシカゴは、その後、目を覆いたくなるようなどん底を経験するに至ります。


なお、余談ですが、テリーの愛娘ミッシェル・キャスが、さる2004年5月6日に、俳優のアダム・シンクレアとめでたく結婚しています。つまり、今では、ミッシェル・シンクレアとなっています。彼女は、DJ TAINAと名乗り、パーティー主催業に従事しています。

ミッシェルはテリーとキャミリア・キャスとの間に生まれましたが、上述のように、生後まもなく、父親であるテリーと永遠の別れを経験します。

その後、女優でもあった母キャミリアは、俳優のキーファー・サザーランドと再婚(90年に離婚)。従って、ミッシェルとキーファーは、継親子(けいしんし)関係にあります。キーファーが66年生まれとかなり若いため、傍目には2人は兄弟のように映りますが、形式上は親子です。なお、このミッシェルの結婚式にはキーファーも駆けつけています。

ちなみに、このキーファー・サザーランドは『スタンド・バイ・ミー』、『三銃士』など日本でもおなじみの映画に出演しているほか、近年では、テレビ・ドラマ『24』のジャック・バウアー役でも有名な人気俳優です。

02

WALTER PARAZAIDER
ウォルター・パラゼイダー 
[ウォルト / パラザイダー]

サックス、フルート

1945年3月14日、シカゴ生まれ。

ベニー・グッドマン、あるいは、オーケストラのトランペッターであった父親の影響もあって、当初はクラシックに興味を覚えたそうです。9歳の頃にクラリネットから始まった楽器習得歴も、13歳になる頃にはサックスやフルートといったその他の木管楽器をマスターするにまで至ります。

しかし、ウォルターは、ディポール大学在籍時より、クラシックからロックンロールへと傾倒し始めます。また、このディポール大学では、後にプロデューサーとなるジェイムズ・ウィリアム・ガルシオと出会うことになります。2人は45年生まれの同い年でした。

この大学在籍中に、いわゆる「rock'n'roll band with horns」、つまり、ホーン・セクションを主体にしたロック・バンドの実現という構想を抱き始め、自ら賛同者を募り出します。その意味で、シカゴの原点は、このウォルターの発想によるところが大きいのです。

その他にも、ウォルターによる、グループ形成への私的協力には、称賛を贈られるべきものがあります。

まず、最初期のテリー・キャスダニエル・セラフィンとの出会いを基軸に、以降、その他のメンバーであるリー・ロックネインジェイムズ・パンコウロバート・ラムらの人選に尽力します。また、直接の前身バンドたるザ・ビッグ・シングは、このウォルターのアパートでのミーティングを機に結成されます。この日付である1967年2月15日は、一般に「シカゴ結成の日」として認知されています。そののち、デビューを夢見て、ウォルターの母親所有の地下室にて、盛んにリハーサルが行われるようになったのでした。

グループ内では、作曲を担当することは稀ですが、まったくないわけではありません("FREE COUNTRY"、"AIRE"、"WINDOW DREAMIN'、!

また、ライヴでは、"FREE"におけるサックス、"JUST YOU 'N' ME"におけるフルートといったソロ・プレイが必見です。

非常に長身で恰幅も良く、ジミー同様ファン・サービスに長けた人なので、彼の魅力はやはりライヴでさらに実感することになるでしょう。

03
DANIEL SERAPHINE
ドラムスダニエル・セラフィン 
[ダニー]

ドラムス

1948年8月28日、シカゴ生まれ。

個人オフィシャル・ウェブサイト

myspace

おじさんの影響で、幼少の頃(9歳)よりドラムスに親しみ、ディポール大学在籍時にはパーカションも専攻。

ダニーはテリー・キャスウォルター・パラゼイダーと早くから行動を共にし、シカゴの最初期を形成した重要人物です。それにもかかわらず、90年頃、バンド側から解雇通知を受け、グループを後にします。この理由の詳細について、正式なアナウンスはいまだにありません。

さて、そもそも、ダニーがテリーやウォルターを知ることとなったのは、ダニーが15歳のときに受けた、ジミー・フォード・アンド・ザ・エグゼキュティヴズのオーディションの際のこと。このとき、1963年。テリーとウォルターがすでにこのバンドのメンバーであったかどうかは定かではありません。ともかく、この出会い以降、3人はさまざまな局面において顔を合わせることになります。

また、ダニーは、バディ・リッチやトニー・ウィリアムズなど、多くの名プレイヤーから影響を受けつつも、常に、それとは違う、自分独自のスタイルをそのドラム・テクニックの中に見出そうと切磋琢磨してきた、と語っています。

作品としては、"MOTORBOAT TO MARS"、"PRELUDE TO AIRE"、"AIRE"などの印象的なインストゥルメンタル群を提供するとともに、"LOWDOWN"のようなヒット曲も共作で生み出しています。

中でも、同郷のデイビッド・“ホーク”・ウォリンスキー(マデュラ〜ルーファス)とは親交が深く、『シカゴ XI』から『シカゴXIV』にかけて数多くの合作を残しています。さらに、途中参加のラウヂール・ヂ・オリヴェイラを連れて来たのもダニーだったと言われています。

ダニーについて加筆すべきことは、おそらく、この友情面でしょう。彼は、その他にも多くのメジャーとは言えないミュージシャンや友人の世話にとても熱心でした。その献身振りには心を打たれます。とくに、シカゴ界隈でクラブ・バンドをしていた頃からの知り合いジェイムズ・ヴィンセントは、ダニーの親身なサポートにとても感謝している1人でもあります。また、ダニーの友達想いは、"TAKE ME BACK TO CHICAGO"のような楽曲においても表れています。

ところで、音楽性の話に戻りますと、専門的なことは一切分かりませんが、ダニーのドラミングはさすがにジャズの芳香が漂い、しかも、その演奏は実に安定感がある気がします。また、非常にキャッチーで聴きやすく、かつ、強い印象を残す叩き方が特徴的です。通常、ドラム・インストゥルメンタルはライヴでしかお目にかかれないものですが、先に挙げた"MOTORBOAT TO MARS"はアルバムにも収録されています。このような稀有な事例は、ダニーのキャッチーな作風が支持された証左であると考えます。また、"QUESTIONS 67 AND 68"や"OLD DAYS"に見られるイントロには誰もが強烈な印象を抱いていただけるはずです。

なお、その後のダニーは、舞台や映画などのジャンルにおいて、音楽面のエグゼキュティヴ・プロデューサーを務めていたりもしました。

しかし、2005年9月、突如としてバンド活動を再開します。2006年1月には、自身のバンドとしてCALIFORNIA TRANSIT AUTHORITY(略称CTA)を立ち上げ、マイペースながらライヴ活動も展開するようになりました。

04

LEE LOUGHNANE
リー・ロックネイン

1946年10月21日、シカゴまたはエルムウッド・パーク生まれ。

トランペット、キーボード、ギター

まず、リーについては、お父さんが空軍楽団のリーダーを務めていたそうです。そのお父さんが楽団を後して、トランペットを譲り受けたリーは、11歳の頃からこれを習い始めた模様。

高校に入るまではロックンロールには興味はなく、もっぱらグレン・ミラーやトミー・ドーシーなどのビッグ・バンドに感化されるところが大きかった、というのが本人の弁。一方、その高校を卒業する頃になると――実は何もしたいものがなくて迷っていたようですが――、結局、将来的にはプロのミュージシャンを目指すことを決意するようになります。そして、専門教育を受けるために、ディポール大学に進学したのでした。この学生時分に、リーは、結婚式の演奏に呼ばれるようなバンド活動にいそしみます。この点では、ジェイムズ・パンコウと同じようなことをしていたわけです。

やがて、そういったサブ演奏的なバンド活動に見切りを付けたリーは、独立し、アパート暮らしを始めます。そこで出会ったのがテリー・キャスでした。

テリーは、すでにバンド仲間であったウォルター・パラゼイダーダニエル・セラフィンをリーに紹介するとともに、リーを仲間に入れ、一緒に行動するようになります。そして、後年67年に至り、ザ・ビッグ・シングの立ち上げに参加することとなります。

リーの操る、高らかで伸びのあるトランペットの音色は、今でも頻繁に演奏される初期の楽曲には欠かせない重要な要素です。その他、リーは、ライヴでは、曲によって、リズム・ギターやキーボードを担当することもあります。

また、リーは、ジミーに次いで、ホーン・アレンジを手掛けたりもしています。さらに、『ラヴ・ソングス』(2005年)に収録された2曲のライヴ・バージョンについてはプロデューサー業も務めるなど、近年のシカゴの音源製作において重要なポジションを占めるに至っています。

シカゴにはテリー、ロバート、ジミーという作曲家3本柱がいたため、初期の頃にはリーの出番はまったくありませんでした。しかし、『シカゴVII(市俄古への長い道)』あたりからアルバム1枚につき1〜2曲ずつ、作曲もしくは歌唱を担当するようになります。80年代になると、また出番が減りますが、90年代に入ると活躍の場面が増えてきます。まずは、お蔵入りとなったアルバムに収録予定だった"STONE OF SISYPHUS"を共作しています。また、98年のクリスマス・アルバム『シカゴ25〜クリスマス・アルバム〜』おいては、作曲のほか、久々にリード・ヴォーカルをとるなどして("LET IT SNOW ! LET IT SNOW ! LET IT SNOW !")、そのハスキーで渋みのある喉を披露してくれています。

05

JAMES PANKOW
ジェイムズ・パンコウ [ジミー]

1947年8月20日、セントルイス生まれ。

トロンボーン

8歳のときにシカゴに引っ越してきたジミーは、10歳の頃に両親からトロンボーンを贈られます。両親や周囲は競争率の低い楽器が有利と考えたのですが、ジミー本人はだいぶ葛藤があった模様。

高校生の頃は、学校のダンス・パーティーや結婚式の演奏要員として呼ばれることもしばしばありましたが、結局は一番関心のあったジャズ志向の活動に没頭するようになります。

その後、プロ意識の芽生えたジミーは、学年は違うものの、同じディポール大学に通うウォルター・パラゼイダーに声を掛けられ、67年、シカゴの前身であるザ・ビッグ・シングの結成に同席します。常に創造力を与えてくれる、刺激的な仲間と行動したい、と考えていたジミーは、どうやら、このウォルターの掲げる「rock'n'roll band with horns」というコンセプトと同じような考えを持っていたようです。

ジミーは、シカゴの初期より、作詞作曲を担当しますが、自ら歌うことは稀で、若干の例外があるにすぎません("YOU ARE ON MY MIND"、"TILL THE END OF TIME"など)。

その作風は、シンプルな言葉と韻を中心に据えて、とても覚えやすい曲作りを行う点に特徴を有します。

また、とくに初期の頃は、組曲形式のものを多く書きました。シカゴがメジャー・シーンに踊り出た最初の曲"MAKE ME SMILE"も、ジミーのペンによりますが(70年、第9位)、この曲も、"BALLET FOR A GIRL IN BUCHANNON"という連作の一部でした。なお、この連作のタイトルは、正確には≪BUCKHANNON≫とつづるのだそうです。つまり、アルバムには、“K”の文字が抜けているのです。これは、発売当時からのミスプリントでして、以後もずっとそのままになっています。

全体の製作面に関しては、そのホーン・アレンジの技量が秀逸です。シカゴがブラス・ロックと言われた所以(ゆえん)は、まさにこのジミーの卓越したアレンジ力によるところが大きいと言えるでしょう。

ところで、シカゴには明確なリーダーというものは存在しません。しかし、バンド内では年下ながらも、ほぼ中立的な姿勢にある、このジミーがバンドの維持に大きく貢献したように思われます。

一方、彼のライヴ・パフォーマンスの“熱さ”はファン周知のところでして、そのサービス精神旺盛なさまは、ぜひ実際にコンサート会場に駆けつけてご覧いただきたい一大アクトとなっています!

06

ROBERT LAMM
ロバート・ラム [ボビー]

1944年10月13日、ブルックリン生まれ。

ピアノ

個人オフィシャル・ウェブサイト
myspace

個人ディスコグラフィ

クレジット

赤ん坊の時分から音楽に興味を持っていたと言われるロバートは、ニューヨークはブルックリンの合唱団に入った頃から本格的に音楽を学び出したようです。とはいえ、肝心のピアノは見様見真似で会得したとか。

15歳のときに母親が再婚すると、それに連れられてロバートもシカゴに引っ越してきます。高校の頃はもっぱらレイ・チャールズに憧れ、同人にならって自らも作曲と歌唱の両者を心掛けるようになります。その高校時代からルーズベルト大学時代を通じて、ロバートは幾多のバンド遍歴を経ます。

その中でも、63年に結成されたザ・ワンダラーズ(THE WANDERERS)では、シングル盤も数枚録音しています(65年頃)。このとき名乗っていたのは、レイ・チャールズにあやかったボビー・チャールズという名前でした。

そして、後年、とあるバーで演奏していたところをウォルター・パラゼイダーダニエル・セラフィンらに発掘され、スカウトの要請を受けるのでした。

このとき、面白いエピソードが残っています。ロバート自身は誰からの電話だったか覚えていないそうですが、とにかく、バンド側から、「金銭的にベースを雇う余裕がないので、オルガンと同時にベース・ペダルを弾けるか?」と尋ねられ、これに対して、ロバートは、「もちろん、できるよ」と答えてしまいます。しかし、実はこれは嘘で、ロバートは本当はやったことがなかったのです。もっとも、ロバートがそれをマスターするのにさほど時間はかからなかったようですが・・・。

バンド内では、デビュー当時から現在に至るまで一貫して、作曲、ヴォーカルといった中心的な役割を果たしています。とはいえ、シカゴには有能なタレントが他にも沢山いたせいで、また、一般リスナーの趣向の変化もあって、その役割の経過には紆余曲折があり、自作の曲がヒット・チャートから遠ざかった時期もありました。

ロバートの作風の主な特徴は、叙“事”詩、すなわち、自らが見聞きした日頃の事象を歌詞の中に織り込むというもので、この特徴は今もなお健在です。それが影響してか、ロバートの詩にはたびたび政治的な話題が登場してきます。とくに70年代の中頃までは様々な物議をかもしたものでした。

一方で忘れてならないのは、"BEGINNINGS"に代表されるような、叙“情”詩的バラードも数多く散見されるということです。

また、ロバートはバンド内ではいち早くソロ活動を並行して行った人物でもありました。すなわち、72年には麻薬撲滅のキャンペーン・ソング"WHERE YOU THINK YOU'RE GOING ?"を、また、74年にはセルフ・プロデュースによるアルバム『SKINNY BOY』を、それぞれソロ名義でリリースしたりしました。

その後、個人の活動はなりをひそめますが、90年代に入り、グループ自体のアルバム製作が低速化すると、反射的にメンバー個々の自由活動が活発となり、ロバートも久々のソロ・アルバムを発表したり、アメリカのジェリー・ベックリーやビーチ・ボーイズの故カール・ウィルソンとともに企画アルバム『LIKE A BROTHER』を作ったりしています。

ロバートのソロ・ワークへの意欲はこれにとどまらず、自身の旧譜をリマスターして再発する事業も本格的に手掛けるようになりました(しかも、ボーナス・トラック付き)。

さらに、2004年2月には、ニュージーランドにおいて、大規模なものとしては初のソロ・コンサートを開催します。このときの模様は、『LEAP OF FAITH : ROBERT LAMM LIVE IN NEW ZEALAND』として、2005年にCDで発売されています。その中で、ロバートは、なんと自作の大ヒット曲"25 OR 6 TO 4"を自らのヴォーカルで歌っているのです!驚愕の1枚とはまさにこのライヴ・アルバムのことです。

最後に、ロバートは実に多くのアーティストの尊敬を集めるとともに、自らも進んで他の才能あるミュージシャンに関心を持ち、ときにはコラボレーションを持ち掛けたりさえしています。この辺の気取らない性格というか、柔軟な思考には頭が下がります。

また、自身のオフィシャル・ウェブサイトには、どこよりも早いシカゴ&ソロ情報を頻繁に書き込んでくれていますので、ここは要チェックです。

07

PETER CETERA
ピーター・セテラ
 [ピート]

1944年9月13日、シカゴ生まれ。

ベース

個人オフィシャル・ウェブサイト

個人ディスコグラフィ

クレジット

ピーターは、10歳の頃にまずアコーディオンに興味を示したようです。その後、ギターより弦の2本少ないベースに惹かれ、高校の半ばくらいから頻繁にバンド活動にいそしんだということです。

少年の時分よりヒット・チャートが大好きだったピーターは、ここでもTOP40音楽のカバーなどを中心とした演奏に没頭します。やがて60年代中期にビートルズが出現すると、彼はもっぱらポール・マッカートニーを懸命にコピーするようになります。

そして、高校の終わりに、地元シカゴでは名の知られたクラブ・バンド、ジ・エクセプションズに参加し、4年余り行動を共にします。

やがて、このジ・エクセプションズにおける方向性の違いや、人間関係のいざこざに嫌気がさすようになったピーターは、何か新しい道を模索せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。

このうち、決定的だったのは、おそらく、バンドの方向性の違いという問題だと思われます。具体的には、オリジナルの楽曲を製作したいと願うジェイムズ・ヴィンセントたちと、せっかく手にした今の安定した生活を捨てる必要はないと主張するピーターとの対立が表面化してしまうのです(ここでピンと来た方は少なくないでしょう・・・。ピーターはシカゴ以前からこのように現実的、安定思考的な考えの持ち主だったようです)。そして、最終的にジェイムズ・ヴィンセントたちがこの方向転換を告げると、ピーターは「ぶち壊れてしまった」(ジェイムズ・ヴィンセントの自伝)そうで、その結果、その後「数ヶ月もすねて雲隠れしてしまった」(同)という話です。みんな若かったのですね。

一方、時を同じくして、シカゴの母体となるザ・ビッグ・シングは、ロバート・ラムの器用さに頼っていたオルガン備え付けのベース・ペダルに次第に物足りなさを感じ始めるようになり、本格的なベース・プレイヤーを探していたところでもありました。

そんなとき、彼らのいた地元シカゴでは、新人の登竜門として、バーナビーズというクラブがオープンします。ジ・エクセプションズもザ・ビッグ・シングも、ここでたびたび顔を合わせるようになります。

すると、上記のように、当時ジ・エクセプションズ内でうまくいっていなかったピーターは、このザ・ビッグ・シングというバンドを前にして、気持ちが動きます。この頃はまだジ・エクセプションズの方が格上だったのですが、ピーターは、わざわざ前座だったザ・ビッグ・シングを観るために早出したりもしたそうです。そして、ブラスを主体としたそのダイナミックな演奏にすっかり魅了されたピーターは、思い切って、このザ・ビッグ・シングへの加入を申し出ることになったというわけです。

但し、ジ・エクセプションズのメンバー、ジェイムズ・ヴィンセントによれば、この経緯については、若干の捕捉説明が必要となるようです。ジェイムズ・ヴィンセントは、その自伝の中で、次のようなことを語っています。すなわち、バーナビーズで双方のバンドが会した頃には、お互い、個々のメンバー間ではすでに知り合いもいるという状態だったそうです(例えば、ジ・エクセプションズのジェイムズ・ヴィンセントと、ザ・ビッグ・シングのテリー・キャスがとても仲が良かったのは周知の事実です)。ある日、バーナビーズでの演奏の合間にテリーと雑談していたところ、話題がピーターのことに及びます。つまり、テリーたちがベース・プレイヤーを探していることを耳にしたジェイムズ・ヴィンセントは、ピーターのことを強く彼らに推薦したのです。もちろん、ジ・エクセプションズが解散状態で居場所がなくなってしまったピーターのことを気に掛けてのことです。しかし、当初、テリーは、この推薦に気が進みませんでした。なぜなら、当時のピーターは若かったせいもあり、かなり扱いにくい存在だという評判が立っていたからです。ところが、実際呼び出して試してみると、ザ・ビッグ・シング側はピーターに好感触を得たようで、その結果、テリーたちは、このピーターをバンドに迎え入れることになるのです。

いずれにしろ、ピーターはこのザ・ビッグ・シングへの加入を決断します。おそらく、67年12月頃のことだと思われます。ここに、シカゴのオリジナル・メンバー7人が揃ったわけです。

シカゴのファースト・アルバム『シカゴの軌跡』においては、ピーターはもっぱらヴォーカルとベースを担当するだけでしたが、2作目『シカゴと23の誓い』からは作曲活動にも精を出し始めます。

ピーターの作風は、感性に訴えた甘美な叙“情”詩が多く、これを、あのハイ・トーン・ヴォイスで気分爽快に歌い上げてくれます。彼の印象的なヴォーカルはまさに天賦の才というべきで、その持ち味は、どのアルバムにおいても遺憾なく発揮されています。

また、ピーターは、70年代におけるシカゴのポップ志向をリードし、80年前後に一時後退したバンドの勢いを再び取り戻すなど、グループに多大な貢献をもたらします。

ですが、ツアーに追われたピーターは、85年5月、突如として、シカゴからの脱退を表明し、ソロ活動に入ります。

その後、80年代中期から立て続けにヒット・ソングを生み出しますが、90年代に入ると、ややヒット・チャートからも遠ざかってしまいます。

しかし、ピーターは、現在でもアルバムを発表し、マイ・ペースながらその活動に絶え間はありません。

2003年夏には、久々のツアーにも出ています。その後も、不定期的にコンサートを開催しています。中でも、ショーの終了後、ファンとの記念撮影や食事会に応じる機会が増えています。これらの事実からもお分かりいただけるように、ピーターは実にファンを大切に思ってくれています。

また、2004年には、自身初のクリスマス・アルバム『YOU JUST GOTTA LOVE CHRISTMAS』もリリースして相変わらず健在振りを示しています。このアルバムの中では、愛娘クレア・セテラとの本格的なデュエットが実現しています。

一方、2007年現在でも、ピーターは曲を書いています。それほど遠くない未来にピーターのニュー・アルバムがリリースされる可能性もなくはないでしょう。

なお、ピーターとコミュニケーションを図りたいという方は、ぜひとも彼のオフィシャル・ウェブサイトをご訪問ください。