本アルバムの先行シングルとして、75年2月にリリースされた曲。本国では、第13位にまで上がるスマッシュ・ヒットを記録します。
シカゴがデビューした69年には、もはやベトナム戦争におけるアメリカ軍の劣勢と非行が誰の目にも明らかとなり、70年代に入ってからも、混迷と敗走を繰り返す、まさに泥沼の状態が続きます。
そのような時代背景の中、72年6月に、かのウォーターゲート事件が発生します。この事件は、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にあった民主党全国委員会本部に侵入した賊(ぞく)が逮捕されたことに端を発し、その目的が盗聴装置を仕掛けることにあったこと、その賊と現職の大統領であった共和党のリチャード・ニクソンとの間につながりがあったこと、などが次第に明らかになるにつれ、一大政治スキャンダルとなった未曾有の疑獄事件です。
このウォーターゲート事件を起因として、72年のアメリカは政治不信一色と化します。そして、翌73年3月、ニクソン大統領はついにベトナム戦争の終結を宣言するも、その実は敗退であり、この戦争で失うものが多かったことから、アメリカ全土にわたって意気消沈したムードが漂います(なお、ウォーターゲート事件の顛末は、後年74年8月に、ニクソン大統領が辞任することで一応の決着をみます。その他、"リチャードと彼の友人達に捧げる歌"参照)。
このような政治不信と戦争敗退という疲弊の中、72年の12月に、第33代の大統領を務めたハリー・トルーマンが死去します。
トルーマンが政権についていたのは、早20年も昔のことだったのですが、俗物的な政争に嫌気のさした当時のアメリカ国民にしてみれば、ここで死去したトルーマンに対して特別な思いを抱いたようです。
では、そのような思いを抱かれるハリー・トルーマンとは、どのような人物であったのでしょうか?
乏しい知識の中から、歴史や人物評の難しさを覚悟しつつ、振り返ってみたいと思います。
1884年に生を受けたトルーマンは、高校を卒業後、数多くの仕事に従事しますが、その後も、家業の農家→従軍→商家といった様々な職歴を重ねます。30代半ばにして民主党に入党すると本格的に政治活動を始めるようになり、やがて地元のボスを後ろ盾にしたトルーマンは、ほぼ50歳にて上院議員に初当選を果たします。その後、1944年、ほぼ60歳で副大統領に選ばれ、翌45年4月に、現職のフランクリン・ルーズベルト大統領が急死すると、そのまま大統領に昇格します。
トルーマンの在任中の政策は、個人の自由(自由主義)を主軸としたものであり、第2次世界大戦の戦後処理を進めるにあたっても、徹底した反共体制を敷いたことで知られています。
そして、何より、その言動がとても印象深い人物だったようです。トルーマンを評するときによく使われる言葉は、≪blunt=ぶっきらぼうな≫、≪plain-spoken=遠慮のない≫、などで、つまりは、無愛想で率直な物言いをする人だったようです。
また、高校時代はアルバイトをしながら通学していた、大学を出てない、様々な職業を経た、など、いわば苦労人が頑張って大統領までのぼりつめた、ということで、まさにアメリカン・ドリームの体現者でもあったわけです。
このような人物が、政治不信に揺れる72年の12月に死去したことに伴い、次第にアメリカでは、トルーマンのように率直な発言のできる政治家を思い偲ぶようになったのかもしれません。
そこで、ロバート・ラム作の本曲"拝啓トルーマン大統領"の歌詞を見てみると、たしかに、≪speak your mind in plain and simple ways=分かりやすく、簡単にお考えを述べてください≫、≪call a spade a spade=率直におっしゃてください≫、といった言葉が並びます。
そして、冒頭は、≪America needs you, Harry Truman≫、≪Harry, colud you please come home ?≫、と呼び掛けるように始まり、国内の停滞の様子を洗いざらい告白します(なお、ニクソンの辞職後も、共和党のフォードが大統領(在位74年〜77年)になるだけで、ベトナム戦争の戦後処理、深刻なインフレによる失業者の増大といった社会問題の多くはなお未解決のままでした)。
つまり、75年に発表されたこの曲は、政治不信に見舞われ、実質的敗戦に疲弊したここ数年のアメリカを憂い、“今こそあなたのような政治家が必要なんだ”という曲と見ていいでしょう。また、ロバート自身、熱心な民主党支持者であったことから、“反ニクソン、是トルーマン”という構図にも肯けるものがあります。
ところが、一方で、このトルーマン大統領は、日本への原爆投下を最終的に決定した張本人であるために、広島のファンからその点についての指摘があり、これを受けて、シカゴ・サイドは、以降のプロモーションを中止するに至ります。
戦後、トルーマンは、原爆投下のやむなきに至ったことについて、弁明に努めています。自伝でも、「原爆投下によりアメリカ兵50万人が救われた」と記しています。その後も、多くの識者の間で、これを擁護する論調が展開され、やがて形成された、いわば“原爆神話”は、今でもアメリカ国内で横行しているのが事実のようです。
しかし、当然のごとく、日本側ではこれに対する反論も多く、中でも、「数字の算出基準が不明」、「仮定の条件を用いるべきではない」などいった意見をよく見かけます。
結局 ――― 、アメリカ側は原爆の残虐性を看過し、日本側は大陸侵攻の残虐性を看過しているので、このような反駁が延々と繰り返されるのでしょう。
いくら中立的に考えても、原爆の非道さに目をつむるとことはできません。しかし、他方で、トルーマン個人に集中砲火を浴びせることにも躊躇を感じます。ましてや、アメリカ人たる、この曲の作者ロバート・ラムを責める人はいないでしょう。かといって、勇気を振り絞って指摘した広島のファンの気持ちをないがしろにすることもできません。非常に意見表明をしにくい曲です。あえて言えば、結論のない問題なのでしょう(もっとも、そう言い切っていいのかは分かりませんが・・・)。
ここで思い出されるのは、2002年、日本のテレビ東京の音楽番組『そして音楽が始まる』のインタビューに答えるロバートのコメント、「誰でも平和でいたいんだよ」です。
さて、気分を変えて、音楽面からこの曲を見てみましょう。イントロはロバートらしいアップ・テンポな立ち上がり。ねっとりと語り掛ける口調は、現政権に対する揶揄(やゆ)的な意味を含んでいるかのようです。疲弊する国土を思いやるロバートの心情が如実に表れた歌詞。全体のゆったりとした雰囲気が、古き良き時代に思い馳せる歌詞の内容にどことなく符合しています。ウォルターのクラリネットも素朴な感じを演出するのに成功しています。
後半の鼻をつまんだようなコーラスは、クレジット上、“THE CARIBOU KITCHENETTES”となっています。直訳すると、≪カリブーの簡易台所≫といった奇妙な呼称になりますね。実際には、ジミー、リー、ウォルター、オリヴェイラのメンバー陣と、その他おそらくは当時のレコーディング・スタッフからなる総勢14名の即席コーラス隊のようです。カリブーはもちろん、当時シカゴのレコーディング・スタジオのことでしょう。
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