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ただし 管理人
登録日: 2008.01.13 記事: 2635
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日時: Thu Sep 11, 2008 7:20 am 記事の件名: ロバート・ラムのインタビュー(2008年8月) |
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ロバート・ラムの最新インタビューです。
なかなか興味深いことばかりです。
最終編集者 ただし [ Thu Dec 25, 2008 7:28 pm ], 編集回数 1 回 |
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j_j_pankow
登録日: 2008.01.26 記事: 71 所在地: 札幌
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日時: Fri Sep 12, 2008 5:22 pm 記事の件名: 面白い! |
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Lammさんの答えは簡単ですけど、
「へえー」ボタンを沢山押しましたよ。
Dannyさんのことは、やっぱ話さないんですね。
最後の今後のプランの答えが寂しいですけど・・・
でも、「へえー」のインタビューですね。 |
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ただし 管理人
登録日: 2008.01.13 記事: 2635
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日時: Fri Sep 12, 2008 8:44 pm 記事の件名: Re: 面白い! |
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j_j_pankow wrote: |
最後の今後のプランの答えが寂しいですけど・・・ |
これは、“現時点”での答えでしょうね。 たしかに、今年はないですよ。 |
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たまっちょ
登録日: 2008.04.17 記事: 57
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日時: Sat Sep 20, 2008 1:55 am 記事の件名: |
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この方は、シカゴ歴25年というだけあって、私なんかと感覚が似ています
(私も82年からですから)。
TWENTY-1や、Danny、CHRISに関する率直な質問は、私の感覚に正直で、見ているこっちがビクビクするほどです。
TWENTY-1に関して、若干でも肯定的なコメントがあったのはこのアルバムが好きなファンとしてうれしいです。
ただしさん、ご紹介ありがとうございます。 |
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ただし 管理人
登録日: 2008.01.13 記事: 2635
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日時: Thu Sep 25, 2008 1:35 pm 記事の件名: |
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上記2008年8月付けのロバート・ラムのインタビューの翻訳です。いつものとおり、意訳ですので、その旨ご理解ください。しかも、質問事項については逐語訳になっていません。
なお、2007年11月付けのインタビューについてはこちら。
Q1 1967年に活動を開始したとき、あなた方は、ロックンロール・ウィズ・ホーンズという誰もしたことがないことを成し遂げたわけですが、当時、それが革新的なことだという認識はありましたか?
「私たちは、常に自分たちのことを類例のないバンドだと思っていました。革新的ではなくね。メンフィス・スタイルのソウル・バンドが模範でした」
Q2 クリス・ピニックは、『14』『16』『17』でシカゴのメンバーでしたが、私の知る限りでは、オフィシャルな写真には彼は現れていませんね。彼は、長期的なメンバーとしては予定されていなかったのですか?
「私は、クリスと一緒のバンド・フォトを持っていますよ。実を言うと、ドニー・デイカスの後、我々は、急いで恒久的なメンバーとして誰かを雇うということをしなくなったんです。『17』の写真はないですよね、クリスと一緒に撮ったPRショットもあるのに」
Q3 曲作りの通常のプロセスは?
「曲が先で、詞が後です」
Q4 "QUESTIONS 67 AND 68"はどのようにして生まれたのですか?また、歌詞の意味は?
「この曲は、当時付き合っていた彼女のことを気難しめのイメージで書いたものです。それと、ビートルズの影響を受けた感じでね」
Q5 なぜダニー・セラフィンはバンドを去ったのですか?
「こういうタイプの質問は権利侵害に当たります」
Q6 あなたは、シカゴの過去のメンバーと連絡を取っていますか?
「クリス・ピニック、マーティー・グレッブ(※)、ラウヂール・ヂ・オリヴェイラについては、そうです」
※マーティー・グレッブは、シカゴ生まれのキーボーディスト/サックス・プレーヤー。ピーター・セテラとはジ・エクセプションズで同時期に稼動していたことがあり、シカゴのメンバーとも、60年代の中期から顔見知りの仲でした。
マーティー・グレッブは、後年、1980年のシカゴのツアーに同行しますが、ステージ上では、「我々の(昔ながらの)友人です」と紹介されるにとどまります。ですから、正式メンバーとしての扱いではありませんでした。ビル・チャンプリンが正式に加入する前の話でしたので、おそらく、キーボードを担当できる者として、急遽、旧友であるマーティ・グレッブに白羽の矢が立ったのではないか、と推測されます。
Q7 "WISHING YOU WERE HERE"でのビーチ・ボーイズとのコラボレーションは、どうやって実現したのですか?ブライアン・ウィルソンも参加を要請されたのですか?あなたは、ブライアン・ウィルソンと共演したことはありますか?彼と作曲活動しようとしたことは?
「ビーチ・ボーイズもカリブー・ランチに来てしましたし、私たちも彼等に何かで一緒に歌ってくれないかと要請していました。当時、ブライアン・ウィルソンはツアーに出ていなかったのです。ブライアンと私はとても仲の良い友達です(※)。ただ、それは人付き合い上のもので、職業上のものではありません。彼と私はお互いに作曲の腕を認め合っています」
※ロバート・ラムは、還暦の日に、夫人と共にブライアン・ウィルソンのソロ・コンサートを観覧しました(場所はなんとカーネギー・ホール!)。ブライアンがステージ上から、本日がロバートの60回目の誕生日であることを告げると、会場が一体となって、"ハッピー・バースデー・トゥ・ユー"を合唱してくれたそうです。これに対し、ロバートは、「エキサイティングな瞬間でした。決して忘れられないでしょう!」とそのときの感想を語っています。
Q8 1975年はビーチ・ボーイズと一緒にツアーをしましたが、どんな共演形態だったのですか?
「このときのツアーは、70年代になってもがき苦しんでいたビーチ・ボーイズのカムバック・ツアーでした。彼らがオープニング、我々がトリを務めました。私は、彼らのセットリスト中、"SURF'S UP"を歌いました。ホーンズは、"DARLIN'"と"GOD ONLY KNOWS"で共演しています。一番最後に何曲か一緒に演奏しています。どれも非常に楽しかったですよ」
Q9 ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオの巧みな支配は息苦しく、あなた方はもっと自分たち自身でコントロールしたいと思うようになった、という文章を読んだことがあります。このことと、『11』がガルシオの最終作となったこととは符合する話なのですか?
「ガルシオは、我々がどんちゃん騒ぎをしすぎて焦点がボケてしまったときでさえ、もっと作れ、もっと作れ、という感じでした。我々の考えでは、このころ、彼は支配的過ぎたのです。しかし、回想してみると、彼は彼でレコーディングを完成させるにはそうするしかなかったのです。彼にしてみれば、我々が腰砕け状態になっているのを見るのは辛かったに違いないのです。しかし、彼は、我々を手放さざるを得なかった。それは、我々関係者一同にとって残念なことでした」
Q10 (『12』に当たる)『HOT STREETS』は、バンドとフィル・ラモーンの共同プロデュースによりますが、これは彼が初期のアルバムでミックスを担当したことがあるからですか?どうやって、『12』ではなく、『HOT STREETS』となったのですか?
「フィルは、バンドとも顔馴染みで(※)、良い選択でした。私たちは、ナンバーズ・パターンを破ろうとしたわけですが、あまり良いアイデアではなかったですね」
※フィル・ラモーンは、『6』(73年)からミックスでシカゴのアルバム作りに参加しており、ガルシオの去った後の『12』(78年)と『13』(79年)をシカゴと共同プロデュースしています。さらに後年、『28』に当たる『CHICAGO CHRISTMAS 〜 WHAT'S IT GONNA BE, SANTA ?』(2003年)において、6曲のクリスマス・ソングをプロデュースし、メンバー等と旧交を温めたのでした。
Q11 『HOT STREETS』では、ビー・ジーズが"LITTLE MISS LOVIN'"でバック・ヴォーカルをし、シカゴ・ホーンズが彼らのアルバム『SPIRITS HAVING FLOWN』で演奏していますね。私は、ビー・ジーズが当時あなたたちの隣の部屋でレコーディングしていた、という話を読みました。これらのコラボレーションはどうやって実現したのですか?
「あなたの言うとおり。私たちは毎日、マイアミのスタジオで彼等を見掛け、友好的な関係が始まりました。彼らは素晴らしい人たちです。」
Q12 あなたは、初期の作品を聴きますか?若い頃の自身の作品を聴いて、どう思いますか?音楽と歌詞はいまだに新鮮に感じますか?もっと違う風にしたいと思うようなことはありますか?
「いいえ、私は初期のシカゴの曲は聴きません。ライヴ・セットに追加する曲をリサーチする目的以外には」
Q13 『STONE OF SISYPHUS』がついにリリースされました。1993年にレコーディングした当時と同じように良い作品だと今でも思いますか?この作品は、ビーチ・ボーイズの『SMILE』的な伝説を作ってしまいましたけど、誇らしく思えなかったことはありますか?
「私は、良い作品だと思っています。リリースが遅れたのがちょっと残念なだけで。今と同じく、1993年からずっと誇りに思っています」
Q14 1994年に『STONE OF SISYPHUS』がお蔵入りしたことについて、あなた方は、当時のレコード会社から十分なサポートを受けなかったと感じているようですね。一方、ライノは現在、『1』から『17』までと『STONE OF SISYPHUS』を再発させています。これは、ライノが非常にサポートしてくれていることを意味している、と私は思うのですが。次のアルバムは、自分たちが管理して自分たちでプロデュースしてみたいとは思いませんか?
「おそらく、製作管理は我々がするでしょう。しかし、レコーディングの過程では、実際のプロデューサーと共に仕事をするでしょうね。ライノは、予算の許す限りにおいてですが、とてもサポートしてくれています。70年代バンドに対して熱心に資金を投じる会社なんてないんですよ」
Q15 なぜカントリー・バンドであるラスカル・フラッツのジェイ・ディマーカスを『XXX』のプロデューサーに起用したのですか?
「彼は、ジェイソンの友達なんです(※)。バンドもとても成功しています。私たちは、このプロジェクトのために新鮮なアプローチを探していました。彼らの成功がこのアルバムにも響くことを期待しながらね」
※ジェイソン・シェフとジェイ・ディマーカスの親交についてはこちらをご参照ください。
Q16 ライノは、『18』『19』『21』『NIGHT & DAY』を再発するのでしょうか?
「計画はあります。私はそう理解しています」
Q17 パーカッショニストのラウヂール・ヂ・オリヴェイラを『7』からシカゴのオフィシャル・ラインナップに加えた理由は?
「テリー・キャスは、ダニー・セラフィンの“テンポ”にフラストレーションを抱いていました。ですから、彼は、ダニーが安定したテンポをキープするのにラウヂールが一役買うと考えたのでしょう。このことが最終的にダニーがバンドを去る一因ともなったわけです。数年かかりましたが、なお悪化して行きました」
Q18 デューク・エリントンに会ったときの印象は?
「私たちは、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたトリビュート・TVショーに出演したまさにそのときだけ彼に会いました。彼は天才かつ紳士でした」
Q19 私は、『LIKE A BROTHER』に収録されている"FEEL THE SPIRIT"が本当に好きです。この曲の作曲過程は?
「ピーター・ウルフ(※)が、ベースとなるミュージック・アイデアを出し、私が歌詞を書きました。『STONE OF SISYPHUS』のプロジェクトには間に合いませんでしたので、次のプロジェクトに回そうと思い、それが『LIKE A BROTHER』になったのです。それから、フィル・ガルドストンと私とで音楽の部分をちょこっと書き直した、というわけです」
※『STONE OF SISYPHUS』のプロデューサー。もちろん、J・ガイルズ・バンドの一員とは別人。myspaceはこちら。
Q20 "DOES ANYBODY REALLY KNOW WHAT TIME IT IS?"のピアノ・イントロをライヴで省略するのはなぜですか?
「21世紀のオーディエンスは注意欠如症候群に罹患しているので、(長々とイントロを演奏することは)彼等を飽きさせてしまうのです。我々はそう確信しています」
Q21 ピーター・セテラの『SALT LAKE CITY』DVDに収録された"25 OR 6 TO 4"はご覧になりましたか?彼はDVDのインタビューの中で、この曲はあなたとシカゴへのトリビュートだと言っています。また、あなたのことを同世代の偉大なソングライターの1人であると考えています(※)。
「見ました。ピーターはとても丁重でしたね」
※事実、ピーター・セテラは、"25 OR 6 TO 4"を歌うとき、いつもロバート・ラムに対して敬意を払っています。
Q22 フィル・ラモーンは、ビリー・ジョエルのアルバムも沢山手掛けています。あなたは、ビリーに会ったり、一緒に仕事をしたことがありますか?
「私もビリーに会ったことがありますよ。そして、"MY LIFE"のレコーディングの際は立ち会っていました。この曲のピアノ・サウンドは、当時私が使っていたヤマハのCS-80で出していた音と似ています。ピーター・セテラとドニー・デイカスがバック・ヴォーカルで歌っていました」
Q23 『17』の"WE CAN STOP THE HURTIN'"は私のお気に入りです。あなたとビル・チャンプリンとデボラ・ニールによって書かれた曲です。この曲はどうやって出来たのですか?
「数年間の休みを経て、私は再び曲を書き始めました。一連のヴァースについてはアイデアがあったのです。デボラが歌詞を書き、ビルがコーラス用にコード・チェンジを加えました。スティーヴ・ポーカロがスタジオでシーケンサーをプログラミングしました」
Q24 シカゴのアルバムに収録される曲はどのようにセレクトされるのですか?
「まず、プロデューサーやレコード会社関係者にデモを渡します。バンドのメンバーがセレクトするのは稀です。ま、もっともな話ですが、誰もが自分の歌こそ録音すべきものと考えるでしょうから!過去には、バンド内のライター数も少なく、また、外部の曲も全くなかったので、シカゴの曲はこうあるべきだと考える者が曲を用意していました。例:『5』」
Q25 1981年にビル・チャンプリンが加入したとき、他に誰か候補に挙がったのですか?また、1978年のテリー・キャスの死後、ビルにアプローチしたことはありますか?
「私の知る限りでは、彼にアプローチしたのは1981年が最初ではなかったはずです。なぜなら、バンドの多くのメンバーは、テリーなしでは私が活動を継続しないだろうと推測していたからです。ですから、バンドとしては、キーボーディスト兼シンガーを必要としていたはずです」
Q26 あなたは、最初はご自身で曲作りをすることがほとんどでしたが、80年代に入って他のソングライターとコラボレーションし始めましたね?
「これは、そういうのが流行ったせいでしょうね。今日もかなり継続されています。楽しいし、多くを学びます。回想してみると、そういうのはシカゴ的なアプローチの根源を薄めましたね」
Q27 『7』の冒頭の5曲は、これに続く曲に対しても斬新なものでした。こんな商業向きじゃないアルバム作りをしたのはどういうわけですか?これら斬新な曲を、もっとアルバム全体に散りばめて配置しようとは思わなかったのですか?
「後付け的な考えに走らないでください。私とあなたのテイストが異なるというだけの話です。しかし、私たちは、“斬新な”『7』というアルバムをレコーディングし続けるためのスタミナが切れてしまったのだと思っています」
Q28 70年代には、コロラドの田舎にあるカリブー・ランチで沢山のアルバムをレコーディングしましたね。すべての雑事から離れて心の平静を保ちながら録音できる格好の土地だったのではないですか?
「それを望んでのことでした」
Q29 再発盤『17』のボーナス・トラック"WHERE WE BEGIN"は、なぜオリジナル・リリースの際、収録されなかったのですか?バック・ヴォーカルとハーモニーを利かせているのは誰ですか?デイヴィッド・パックのように聞こえるのですが。
「そうです、デイヴィッド・パックです。でも、未完成曲と言った方が良いですね」
Q30 『18』では、スティーヴ・ルカサーとジェイムズ・ニュートン・ハワードと一緒に"OVER AND OVER"を書いていますね。このコラボレーションはどういう経緯で実現したのですか?
「ルークとジェイムズが歌詞を必要としていたのです」
Q31 『16』では、TOTOのデイヴィッド・ペイチ、スティーヴ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサーが重用されています。この3人はアルバム中で演奏もしていますし、ペイチとルカサーは、デヴィッド・フォスターと一緒に"WAITING FOR YOU TO DECIDE"を共作しています。彼らが参加しているのは、デヴィッド・フォスターのアイデアですか?
「フォスターは、彼が偉大であるのと同じように、自分のプロジェクトにはいつもセッション・プレーヤーとしてのTOTOを頼りにしていました。彼は、グレート・シカゴ・アルバムを作り、オリジナル・メンバーによって自信を失ったバンドという体を成そうと試みていました」
Q32 『16』と『17』では、あなたの曲はあまりレコーディングされていませんが?
「(テリー・)キャスの死後、私はスロー・ダウンしました。また、私の書いたものは“ラジオ向き”ではなかったのです。“70年代”っぽすぎたのです」
Q33 『13』は非常に評価の低いレビューばかりでした。当時一世を風靡したディスコ・サウンドに傾倒したという見方もあるのですが。
「レビューよりは全然良い(作品)ですよ。私たちはむしろ“ポップ”であることに懸命でした」
Q34 『14』のプロデューサーにトム・ダウドを選んだ理由は?以降のアルバムに比べると、ベーシックな作品ですね。あんまり成功したアルバムでは・・・。でも、振り返って今どう思われますか?個人的には、ソングライティングにかけてはとても良いアルバムだと考えているのですが。
「そう、かなり良いアルバムですよ。トム・ダウドは素晴らしい人物でした。シカゴが苦境にあったときに全力を傾けて手助けをしてくれたのです。私は常々認めていたところですが、ピーター・セテラはソングライティングに関してますます自信を深めて行きました」
Q35 最初のインタビューのとき(※)、あなたはロン・ネヴィソン絡みで『21』についてはあまり良い感想を持っていないようでしたが、ジェラルド・マクマホンと共作した"ONE FROM THE HEART"については誇らしく思っておられるのではないですか?私はこの曲は、アルバム中、ベスト・ソングだと思っています。
「その曲は好きですよ。そのとおり、ジェラルドと書いたものです」
※ロバート・ラムは、2007年11月付けのインタビューにも応じています。ロン・ネヴィソンに関する質問及び回答は以下のとおり。
――『21』も私のお気に入りアルバムです。ロン・ネヴィソンは、才能あふれるプロデューサーで、このアルバムの大半の曲をプロデュースしています(また、『19』でも数曲プロデュースを担当しています)。彼との仕事はどうでしたか?どのようにして彼をプロデューサーに起用すると決めたのですか?
「ロン・ネヴィソンは、当時(80年代後半)の活躍振りをあてにして選ばれました。彼は、ダイアン・ウォーレンの曲を持って来たのですが、我々はなぜこんなシンプルな音楽を提案されるのか、よく分かりませんでした。しかし、それらがヒットしたわけです。この時期は、ダニー・セラフィンのドラミングの役割を減じた時期でもありました(我々はセッション・ドラマーも使いました)。ホーン・セクションもほとんど無視された状態です。私は、この時期に書いた自分の曲にもホーンを使うよう要求したのですが・・・。ネヴィソンはこのバンドに合うミュージシャンではありません。」
Q36 1975年(※)、あなたはソロ・アルバム『SKINNY BOY』をリリースしました。シカゴの次回作用に楽曲を提出する代わりに、このタイミングでソロ・アルバムを製作する必要を感じたのはどうしてですか?
「私は沢山曲を書いていました。それらは、シカゴがしていたのと違いがあったのだと思います。私たちは、カリブー・ランチのスタジオに移行し始めていました。私は、バンドの目的は、できる限り多作であろうとすることにあると考えました。テリー・キャスは、これに理解を示してくれました。それに、私は、シカゴの次回作用にも沢山の楽曲をすでに用意していましたから」
※1974年の間違い。
Q37 シカゴのメンバーの中でもテリー・キャスだけが『SKINNY BOY』で演奏していますね。彼に参加を要請した理由は?
「ギル・ガルシアがパーカッションを担当しています(彼は、ラウヂールが加入する前のごく短期間、シカゴと仕事をしています)。テリーはずっと、作曲と録音作業を支持してくれていました。彼は素晴らしいベーシストでもあるんですよ。彼は私のソロ・アルバムのコンセプトも理解してくれました。彼は、あるドラマーとの共演も楽しんでいたと思います(そのドラマーは、ロス・サラモーンといいます)※」
※ギル・ガルシアにしても、ロス・サラモーンにしても、すべてバンドと馴染みのあるミュージシャンです。ロバート・ラムは、自身のソロ・アルバムには、このようなバンド・メンバー以外の仲間にも声を掛けるなどして、本当に交友を大事にしています。その傾向は、時を経た2003年に発表された『SUBTLETY & PASSION』にも脈々と受け継がれています。
Q38 私は、『SKINNY BOY』の"TEMPORARY JONES"が本当に好きです。デューク・エリントンと仕事をしていた作詞家のロバート・ラッセルとの共作ですね。ところが、ロバート・ラッセルは1970年に亡くなっています。彼が亡くなる前に共作したのですか?それとも、彼の死後、彼の歌詞を用いたのですか?
「私は彼の家族と面識があったのです。そして。彼等は、私の作品も認めてくれおり、親切にも、行き場のない沢山の歌詞を私に贈ってくださったのです」
Q39 『SKINNY BOY』はずいぶんピアノが利いていますね・・・最近のソロ・アルバムよりも。これはどうしてですか?
「モルテン・・・(※1)、これが70年代のロバート・ラムのサウンドですよ!ニューヨークのCBSスタジオからカリブー・ランチに運んだスタインウェイ社(※2)のピアノです。無数の偉大なレコーディングがこのピアノで行われました。マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ブラッド・スウェット&ティアーズ、ボブ・ディラン、ポール・サイモンなどなど。素敵な音のする楽器です!」
※1インタビュアーのMorten Lauridsenのこと。なお、デンマークの方なので、発音は不詳・・・。
※2アメリカのピアノ・メーカー。
Q40 『SKINNY BOY』でストリングスを使用し、ホーンを使用しなかったのは、意図的なものだったのですか?これは、シカゴとは違ったことをしてみたかったから、ということですか?
「まさにそのとおり」
Q41 "HARD TO SAY I'M SORRY"にアップテンポな"GET AWAY"をリンクさせたのはどういう理由からですか?
「デヴィッド・フォスターのアイデアです。"GET AWAY"は、私のソロ・アルバム『TOO MANY VOICES』(※)に収録されている"SACHA"のコーラス部分だったのです。私は、"SACHA"を『16』用に提出したのです」
※1999年発表の『IN MY HEAD』が改題&未発表曲追加され、2004年に再発されたもの。
Q42 シカゴの初期のアルバムの傾向として組曲がありましたね(『1』や『3』)。どうして組曲をしなくなったのですか?将来のシカゴのアルバムではしてみたいと思いますか?
「シカゴはよりポップな方向に突き進むのを良しとしたのです。組曲の可能性を探るにもいいですね。しかし、注意持続時間の文化的欠乏というものがあるわけでして」
Q43 テリー・キャスの死後初のアルバムということで、『HOT STREETS』をレコーディングすることは相当ハードだったのではないですか?
「おやおや」
Q44 最新ソロ・アルバムは『THE BOSSA PROJECT』ですね。ずっとボサノヴァ・アルバムをやりたかったのですか?ところで、あなたは、ジェーン・モンハイト(※)をご存知ですか?
「イエス、モンハイトはとても良いですね。ま、私は、彼女のことをボッサ・シンガーとは呼びませんが。彼女はジャズ・シンガーでしょう。私はそのどちらでもない!私はむしろブラジルのアーティストの方が好みです。ガル・コスタ、パウラ・モレンバウム、ホーザ・パッソスなど」
※ニューヨーク州ロング・アイランド出身のジャス・シンガー。ポルトガル語で歌唱したボサノヴァ曲を収録したアルバムなども発表。
Q45 『THE BOSSA PROJECT』では、沢山のクラシックもレコーディングしていますね。もっとオリジナルのものを書こうとは思われなかったのですか?
「ひょっとすると、次の機会にね」
Q46 次のソロ・プロジェクトとしてどんなスタイルの音楽を模索していますか?
「シンプルなポップを計画しています」
Q47 私は、ピーター・セテラの脱退や後任について言及した、あなたの1986年のインタビュー読んだことがあります。その中で、あなたは、ミッキー・トーマス、リチャード・ペイジ、そして、スティングにアプローチした、とありました。彼等については、どこまで話が進んだのですか?他にもアプローチはしたのですか?
「スティングには誰もアプローチしていませんよ。しかし、ミッキー・トーマスとリチャード・ページは興味を持ったと思います。ただ、彼等としては、自身たちのバンド(※)以上にシカゴが続くとは思わなかったのでしょうね。私はそう推測しています」
※当時、ミッキー・トーマスはスターシップ、リチャード・ペイジはMR.ミスターにそれぞれ所属。
Q48 これは難しい質問でしょうが、もし3ないし5枚程度挙げるなら、あなたはどのアルバムを選びますか?ツアー、特別なコンサート、コラボレーションなども含めて。
「『1』
『4』
アース・ウィンド&ファイヤーとのジョイント・ツアー
『LEAP OF FAITH』
2008年のヨーロッパ・ツアー」
Q49 あなた方は、ファイヴ・ディケイズ(※)にわたってレコーディングし、演奏しています。音楽ビジネスは、それぞれの時代にどのように移り変わってきましたか?たとえば、とくにシカゴのようなバンドにとって、ビデオなどは、今日、80年代や90年代におけるような重要性を持たなくなってきていますよね・・・。
「この点については、長く複雑な議論をする価値があるところなので・・・、今はパスしましょう」
※60年代、70年代、80年代、90年代、2000年代の5代。そして、2010年代へ。
Q50 シカゴとしての今後の計画は?
「ないです」
最終編集者 ただし [ Fri Sep 26, 2008 12:17 am ], 編集回数 1 回 |
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市俄古森
登録日: 2008.01.22 記事: 514
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日時: Thu Sep 25, 2008 10:52 pm 記事の件名: |
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翻訳ありがとうございます。そして、ご苦労さまです
(実は期待していたのです)
「注意持続時間の文化的欠乏」ですか
あのピアノソロも新組曲も期待しているのですが……… |
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mico
登録日: 2008.04.29 記事: 68
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日時: Fri Sep 26, 2008 5:55 pm 記事の件名: |
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ただしさま
大変な量の翻訳ありがとうございました。(私は途中で挫折しました)Dannyの件はやはり権利侵害でいいんですねー。参考にして、また原文を読みなおしてみます。本当にお疲れ様でした。 |
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じゅつ
登録日: 2008.01.22 記事: 96
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日時: Fri Sep 26, 2008 9:42 pm 記事の件名: |
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ただしさん、お疲れ様・ご苦労様でした。
あれだけの量があれば読むだけでも大変ですが、わざわざ日本語訳ありがとうございました。
私自身Q12のロバートの言葉を見ますと、この年でありながら、まだまだ前進する新しい前向きなロバートという印象を感じました。 |
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ただし 管理人
登録日: 2008.01.13 記事: 2635
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日時: Sat Sep 27, 2008 9:52 am 記事の件名: |
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みなさん、ご感想ありがとうございます!
なかなか返信までできませんが、とりいそぎ御礼まで |
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TL
登録日: 2008.01.23 記事: 133 所在地: 群馬県
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日時: Mon Sep 29, 2008 7:33 pm 記事の件名: ご無沙汰してすみません |
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ただし様、翻訳お疲れ様でした。
私のように、参加できるときにフォーラムに書き込み、でもちょっと仕事等に
追われるとただ読むばかり、というお気楽な立場はお恥ずかしい限りです
サイトを管理・運営する気力・体力には頭が下がるばかりです。
このインタビューは紹介されてすぐに原文をさっと読ませてもらって、Q.50
に対するロバートのいつものような簡潔すぎる回答にまた想像(妄想?)力を
募らせておりました。もう一度原文に当たってみましょうか
(でも、ただし様、どこが意訳なのですか? ほとんど「その通り」だと思えますが・・・) |
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